MENU

「翼」第5号:創業者 渡邊祐策の魅力に迫る


創業者 渡邊祐策の魅力に迫る

渡邊祐策は、宇部興産の前身となる「匿名組合 沖の山炭鉱組合」の頭取を務めた人物です。その後、「宇部新川鉄工所」「宇部セメント製造」「宇部窒素工業」など、次々と事業を興し、現在の礎をつくりました。一方で、「宇部電気会社」や「宇部軽便鉄道」の創業、新川小学校の前身となる「沖の山家庭学校」の開校など、宇部の発展に大きく貢献しました。現在では、渡辺翁記念会館にその名を残し、記念館前の公園で銅像を見ることができます。今回は、そんな渡邊祐策の魅力的な人物像について、ご紹介しましょう。

たゆまぬ学究心

祐策は、農業の傍ら造り酒屋を営む父・恭輔と、寺子屋を開く祖父・藤輔のもとで、幼い頃から読み書きを教わりました。9歳で小学校、14歳で厚狭の協興学舎に入学し、教師になることを夢見ていましたが、協興学舎入学後すぐに父・恭輔が急逝し、家督を継ぐために連れ戻されてしまいます。しかし、まだまだ勉強したい祐策は、家族を説得し、岩国の東澤瀉(ひがしたくしゃ)で陽明学を学びました。僅かな期間でしたが、ここでの経験が、祐策の人格形成と能力開発に大きな影響を与えたと考えられます。

苦労が磨いた人柄

祐策には、たくさんの苦労がありました。4歳で母、9歳で祖父、14歳で父と、頼れる家族を次々と亡くし、寂しい少年時代を過ごしました。その後結婚し、役場勤めをしていましたが、25歳で一念発起し、堀田山炭鉱の開発に着手しました。しかし、見込みが甘く、僅か4ヵ月で採掘を断念、多額の借金を抱えることになりました。祐策が32歳の時に頭取として開発に着手した「沖の山炭鉱」も、最初の数年間は、採掘量が少なく、一時は開発中止を検討したほどでした。苦労の経験が、祐策の卓越した能力を育み、多くの助けと神がかり的な幸運を呼び寄せたのでしょう。

聞く力

堀田山炭鉱の開発に失敗し、多額の借金を抱えて、農業に専念していた時代にも、祐策の家には、たくさんの来客がありました。いろいろな人がやって来ては、さまざまな悩みや問題を祐策に相談しました。祐策は、大小問わず誠意を持って話を聞き、一緒になって懸命に解決策を考えました。宇部の炭鉱が成功した理由のひとつに、コスト削減へのイノベーションと優れたマーケティングが挙げられますが、祐策のこうした姿勢が、大きく反映した結果だと思われます。

子孫を思う心

祐策は、人材の育成にも熱心でした。例えば、多額の私財を投じて「宇部新川鉄工所」に設立した「私立宇部徒弟学校」。将来の工業界を背負う若い人材の輩出を目指した企業内訓練校の先駆けです。セメント工業や化学工業へのチャレンジも、「爺らが代には炭をほりつくして、おまらァの時には何もないと孫にいわれちァならん、長う続く仕事も残しておいてやらにゃ」という理念によるものでした。石炭で得た利益を自分のものとせず、子々孫々にいたるまで、宇部の民が豊かでいられるようにという思いやりが、将来を見据えるチカラとなったのでしょう。

渡邊裕志さんインタビュー

祐策のひ孫の裕志さん 祐策のひ孫の裕志さん

祐策の人生は、寄付 散財の一生だった

私の曽祖父・渡邊祐策は、探鉱事業で大成功しました。そして、ひたすら「宇部の将来」に投資し続けたのです。炭鉱御殿を建て、贅沢放題というのが、炭鉱王と言われた人たちのお決まりだった時代に、彼は一切の贅沢を排し、事業拡大だけでなく、公共インフラや教育機関の整備にまで心血を注ぎました。何が彼をそこまでさせたのか。私は、宇部人の教養レベルの高さに魅せられたのだと考えています。当時の炭鉱主で、祐策のように読み書き・計算ができる人は、ごく僅かだったようです。しかし、宇部には、それができる若者が沢山いたわけです。こうした人財が、宇部発展の原動力になると確信したからこそ、祐策は、安心して「宇部の将来」に投資できたのでしょう。彼らのDNAを受け継ぐ若い世代が活躍する「宇部の将来」に、我々も投資しないといけませんね。

渡邊邸の正門にて 渡邊邸の正門にて

こぼれ話

今回、渡邊祐策翁を特集するにあたり、曾孫の渡邊裕志さんには、格別のご協力をいただきました。裕志さんは、サービス精神旺盛な方で、インタビューに伺った日も、エピソードや逸話などひと通り話されると、松巌園をはじめ渡邊邸内で当時の面影が残るところを次々と案内してくださいました。ご自身も、渡邊家のルーツや宇部市発展との関わりなど研究しておられ、産業観光で見学される方への説明もされているそうです。こぼれ話では、祐策翁が生きた時代の面影が残る佇まいの一部をご紹介します。

渡邊邸にある「はなれ」、松巌園 渡邊邸にある「はなれ」、松巌園

松巌園(しょうがんえん)
渡邊邸の中にある、いわゆる『はなれ』。そもそも、渡邊邸の敷地は、祐策翁が、父・藤輔さんから相続したものです。環境が良いところですから、並みの石炭王なら敷地を買い足して、御殿でも建てようかとなる筈ですが、現在に至るまで広さに大きな変化はありません。当然、御殿が建った形跡もない。松巌園は、唯一、妻・クミさんとの金婚式を記念して建てたコダワリの逸品なのです。
見かけはとても質素で、広さは20坪ほどでしょうか。当然ですが、純和風建築です。しかしよく見ると、丸太一本・天井板ひとつとっても、非常に良質な材料を用いていることが分かります。京都の日本画家・平井楳仙が描いた欄間の屏風絵も、しっとりとして嫌味がなく、それでいて存在感のある名画。長い時を経ても変わらぬ佇まいに、祐策翁が拘った『質実剛健』を感じることができます。

祐策翁の優しさが感じられる坂道 祐策翁の優しさが感じられる坂道

渡邊邸に繋がる坂道
渡邊邸の正門へと繋がる坂道は、ちょっと不思議な造りなのです。どういうわけか、道の両端が石畳で、真ん中がアスファルト舗装。祐策翁の時代は、人力車が主な交通手段でした。そこで、“人力車を引く人に負担が掛からないように”という想いから、車輪の通る部分は抵抗の少ない石畳に、真ん中は引く人が踏込やすいように砂利敷きにしたそうです。アスファルト舗装は、もともと、砂利敷きだったんですね。祐策翁の優しさが感じられる坂道です。

村野藤吾氏が設計した傑作、渡辺翁記念会館。実は、渡邊邸のすぐ近く。 村野藤吾氏が設計した傑作、渡辺翁記念会館。
実は、渡邊邸のすぐ近く。

宇部市渡辺翁記念会館
宇部市民館として親しまれている建物で、演奏会や講演会、演劇など様々な催しで利用されています。特に、音響には定評があり、数々の有名な演奏家がコンサートを行ってきました。正式名称は、『宇部市渡辺翁記念会館』。そうです、この建物、祐策翁が逝去した後に、その功績を記念して建てられたものなのです。
『宇部市渡辺翁記念会館』は、祐策翁が関係した企業7社によって建てられ、昭和12年の竣工後、宇部市に寄贈されました。設計は、日本を代表する建築家の村野藤吾氏。見た目はシンプルなデザインですが、実は随所に凝った造りが施され、それ故か、とても温もりを感じられる建物です。『質実剛健』を大切にする祐策翁に捧げた、村野藤吾氏渾身の作であることが分かります。何となく松巌園にも通じる雰囲気が感じられる建物です。

担当者から一言

渡邊祐策翁、凄すぎです。今回の取材を通して、祐策翁が『心の底から宇部を愛し、その発展を願っていた』ことがよく分かりました。同時に、『どうやってそのモチベーションを維持し、ビジョンを描き、ビジネスに生かしてきたのか』、更なる興味も湧いてきました。
実は、先日、UBE-i-Plazaを見学していた市内の小学生に「渡邊祐策翁って知ってる?」と尋ねたところ、「名前だけなら」という答えが返ってきました。予想通りの回答に、正直がっかりもしましたが、我々大人が積極的に伝えていないことに大きな責任があるとも感じました。将来を担う子供たちに、「先人たちの偉業とそこに託された将来へのメッセージを伝えなければ」という妙な使命感が湧いている今日この頃です。

(担当:吉永)