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「翼」第6号:地域の顔


地域の顔

炭鉱を記録する会のみなさん(前列左から2番目が会長) 炭鉱を記録する会のみなさん
(前列左から2番目が会長)
これまでに出版した本 これまでに出版した本

このコーナーでは『地域の顔』として活躍していらっしゃる方々をご紹介します。今回は、【炭鉱を記録する会】の皆さんにお話を伺います。

-どんな会ですか?

私は会長の浅野正策です。会員は、ここにいる11名に加え、石炭記念館の若手学芸員で計12名です。会員の半数は炭鉱経験者ですが、ご覧のとおり全員が80(歳)を超えています。20年ほど前に、宇部発展の原点である炭鉱を後世に語り継がなければ、という機運が盛り上がりまして、市が中心となって『炭鉱(ヤマ)』という回顧録を編纂しました。私と植田豊年さんが編集員として協力したのですが、折角なのでもう少し細かいところまで残そうという話になりまして、他の炭鉱出身者に声を掛けたのが始まりです。

-主な活動は?

月に一度の定例勉強会と常盤公園にある石炭記念館での語り部が主な活動になります。採炭・電気・機械・労務・マネジメントと、上手い具合にそれぞれのエキスパートが揃っていましてね。定例勉強会では、各々が資料を持ち寄って、1回1テーマで知識を共有しています。石炭記念館での語り部は、宇部炭田の歴史について、2ヵ月に1回程度のペースで講演しています。

-語り部の反響はいかがですか?

昨年は、『炭鉱所在地の今昔』や『炭鉱と鉄道』など6つのテーマで講演しました。「子供のころからずっと宇部に住んでいる」 という市民にも、炭鉱のことをご存知ない方は多く、皆さん熱心に聴いておられます。この活動を始めて3年経ちますが、聴講者は少しずつ増えています。

-気になることがあるとか?

宇部発展の歴史は、炭鉱なしに語れません。本来なら、もっと前に積極的な活動をして、炭鉱を知らない若い世代に語り継ぐ必要があったようにも感じています。我々炭鉱出身者も高齢となり、歴史も風化しつつあります。これからも(60歳代の)若い会員が中心となって語り継いでくれるとは思いますが、市民の皆さんには、『宇部の発展は炭鉱と共にあった』という意識を持って欲しいですね。

こぼれ話

「日本の戦後復興は、炭鉱から始まったんだ!」かつて炭鉱マンだった会員の言葉です。真っ暗な坑道の中、ヘルメットにつけた小さなライトだけを頼りに「いつ落盤するかも知れない、いつ出水するかも知れない」という死の恐怖を感じながら先へ先へと掘り進む炭鉱マン達。彼らを支えたのは、命を掛けて掘った石炭が、第二次世界大戦後の日本再建を支えているというプライドでした。若い世代には想像もできないような危険な仕事ですが、不思議なことに、皆さん「炭鉱は楽しかったなぁ」と仰います。プライドのある仕事が、炭鉱を離れて40年以上が経ち、80歳を過ぎた今でも、彼らの人生を支えているように感じ、何だか羨ましく思いました。

担当者から一言

とても有意義で素晴しい取材でした。会員の皆さんは、それぞれ炭鉱に対する情熱をもっておられ、兎に角いろいろな話を聞かせて頂きました。その中で、特に印象に残った言葉があります。それは、「『自分が死なないため』ちょっとした変化も見逃さない」、「『仲間を死なせないため』常に互いを気にかける」といった炭鉱マンの心がけのようなものだそうです。コレ、現代社会に欠けているものだと思いませんか?「ちょっとした変化も見逃さない」とか「常に互いを気にかける」といったことは、我々が先人から受け継いだ【生き抜く知恵】だと思うのですが、道具や設備が進化する一方、人間関係が希薄になる中で急速に失われているような気がしてなりません。炭鉱マン達の言葉に、改めてハッとさせられた取材でした。
(担当:吉永 龍男)