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「翼」第7号:建築家 村野藤吾の世界


建築家 村野藤吾の世界

執行役員 玉田

宇部油化工業硫安倉庫(1940年)、宇部ゴルフクラブハウス(1937年)。いずれも資材不足等により実現には至らなかった、建築界の偉才・村野藤吾の作品です。2015年夏、彼の建築・模型展が目黒区美術館(東京都)において開かれ、これらの作品の姿を見ることができました。今回「翼」では、宇部市に現存する宇部興産ゆかりの建築物から、彼の初期と最後期の作品をご紹介します。


村野 藤吾

村野 藤吾(1891年~1984年)

昭和時代の日本を代表する建築家のひとり。1930年代から50年以上に渡り数多くの建築設計に携わっている。シンプルな印象の中に機能性とデザイン性が同居する独特の設計は、玄人好みなのか建築家にファンが多い。現存する建築物が多いこと、設計図が比較的多く残っていることもファンにとっては魅力的である。宇部市のように、渡辺翁記念会館・旧宇部銀行(現、ヒストリア宇部)といった初期の作品と文化会館・興産ビルといった最後期の作品が一度に見られるところは珍しい。

初期の作品

宇部窒素工業事務所(1942年)

現、宇部ケミカル工場事務所。赤茶色の塩焼きタイルを用いた外壁は、大きな弧を描き、落ち着きと柔らかさを印象づけている。敢えて低く構えた玄関を通り抜けると、吹き抜けのホールがあり、明るく開放感に満ちている。ここが化学工場の事務所というのが面白い。

宇部窒素工業事務所   トップライト   階段
 

建築当時の優雅さを感じさせるトップライト(左)と階段(右)。
事務所の性格上、内部の多くが改築されている。

最後期の作品

宇部興産ビル(1983年)

村野籐吾 晩年の作品のひとつ。型から製作したアルミキャストパネルやマホガニーレッドのアメリカ産花崗岩を使用した外壁により重厚感と高級感が上手く演出されている。シティホテルとオフィスが同居する複合ビルにおいて、ここまで凝ったデザインは、非常に珍しい存在である。

宇部興産ビル   飾り柱   スプーン型の入り幅木
 

事務棟の四隅に設けられた『飾り柱』。下に行くほど大きくなるデザインは、力強い印象。花崗岩をこんな形にするのは、大変な作業らしい。

 

『村野さじ』とも呼ばれる『スプーン型の入り幅木』。靴や掃除機などが当たる部分を保護する目的で用いられる幅木でさえ、凝ったデザインでオブジェに。

    外壁   国際会議場の「避難階段」
 

アルミキャストパネルの外壁。窓部分の出っ張りは、居室の空間演出と外観のデザイン性を両立し、更に空調機器を上手く納めるという三役を担っている。

 

国際会議場の「避難階段」にもこんな遊び心が・・・。

こぼれ話

宇部興産ビルは1983年10月に完成しました。竣工当時、関係者に配布されたと思われる「興産ビル」と書かれたパンフレット。設計者の言葉の中に「建物は5~6年後に本当の設計価値がでてくるもの」というくだりがあります。アルミキャストパネルやアメリカ産の花崗岩を用いた凝った外観、大理石張りの豪華なエントランスなど豪華さが際立つこのビルですが、細かいところまで機能的にデザインされたインテリアこそが村野作品の真の価値なのかも知れません。

興産ビルパンフレット   有機化学研究所

宇部興産ビル竣工の際、関係者に
配布されたパンフレット。

  こちらは、有機化学研究所。
車寄せデザインが特徴的。

担当者から一言

ピロティーの噴水、巨大な会議場、大理石張りのエントランス、吹き抜けのティーラウンジ等々、当時の宇部では違和感を覚えるほどの豪華なつくりの宇部興産ビル。そこからは、「有限の鉱業から無限の工業へ」を経て発展し、更なる発展を目指す宇部のシンボルとして誕生した背景が伺えます。このビルの『がっしりとした押しの強さ』は、渡辺翁記念会館の『包み込むような柔らかさ』と対照的な感じです。村野藤吾氏の初期と最後期の作品ということで、時代も違えば背景も違い、依頼主も違うので【違って当然】なのですが、やはり面白いです。建築という芸術も結構楽しめますね。
(担当:吉永 龍男)