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「翼」第7号:宇部興産物語


宇部興産物語

建設中の1号キルン 建設中の1号キルン

初めてのセメント工場

この写真は、大正13年(1924)宇部セメント製造(株)による、建設中の乾式ボイラー付き1号キルン*です。当時の経済界は厳しく、創業者渡辺翁が婦女子のためと興した宇部紡織所も経営不振に陥っている中での新たな事業への進出には反対の意見も多いものでした。しかしながら、宇部でセメント事業を興す必要性とその将来性を説明し、さらに(1)原料の石灰石山(伊佐)を所有、(2)その品質はセメント材に好適であるとのアメリカ人技師からの評価、(3)県に売却予定の「宇部電気(株)」の代金を工場建設費に充当できると粘り強く伝えることで出資者の理解を得、大正12年(1923)同社が誕生しました。当時の住所は宇部市大字小串海面埋立地未成地無番地。
「無」から始まる門出でした。

*キルン:セメントの紛体原料を1,450°C以上の高温で焼成する装置

こぼれ話

建設中の宇部セメント製造(大正13年) 建設中の宇部セメント製造(大正13年)

宇部セメント製造の創立

炭鉱・電力・物流・鉄鋼・学校などの大経営者となった渡辺祐策は、大正12(1923)年、予ねてからの持論の具体化に乗り出した。それは「天与の資源である石炭は、やがて掘り尽くす時が来るが、宇部の地域社会がこれと運命を共にしないよう永久性のある工業を興しておかなければならない」という強い信念であった。後に日本は石炭から石油へのエネルギー転換が急速に進展し炭鉱の閉山が相次ぎ、地域社会が崩壊して行くが、宇部市は閉山の痛手に負けず、産業都市として発展した。具体的には、セメント事業への進出であった。
沖ノ山炭鉱がセメント会社を設立した背景には、宇部から北へ約30kmの伊佐に原料の石灰石があること、宇部電気を山口県に売却する予定があり、この資金の有効な活用法が求められていたこと、セメント事業の可能性調査の結果が良かったこと、更には沖ノ山炭鉱から出る廃土で埋立が進み、工場用地が造成されていたことがあり、燃料には地元の石炭の利用が考えられた。しかし、このころの日本のセメント業界はひどい状態であった。第1次世界大戦後の反動不況は深刻で、セメント市況は暴落し、新規参入にとっては、強い逆風であった。それでも、宇部におけるセメント事業は、鉱業から工業への長期的な基本戦略であり、むしろ、資材価格が低下し、不況下の工場建設は経済的に有利と考えられた。
新会社設立は大正12年(1923)3月に最初の協議会が持たれた。不況のため消極的な意見も多かったが、渡辺は第2回の協議会で、宇部でセメント事業を興す意義と将来性を説明し、出席者全員の合意を得た。資本金の予約募集を始めると応募が殺到したため増額したが、応募の中には炭鉱労働者や市民などの零細な株主も多く、新会社は広く市民各層の支えによって生まれたと言える。創立総会は9月15日に開かれた。

担当者から一言

1枚の写真を選び、その時代に触れ、今を思う。2年後、当社は創業120年。後世に伝えるために、今のことを記録として、しっかり残さなければならないと、古びた写真を眺めるたびに思うこのごろ。今回の1枚も、当時の人々の思いが伝わってくるようで、温かい気持ちになりました。
(誌面「翼」担当:M.K.)

ちょうどこの時期、創立総会の案内状を発送して間もない9月1日にマグニチュード7.9の関東大震災が発生、死者は9万人を超える大災害となり、経済界の受けた打撃も甚大であった。発足間もない宇部セメント製造の株価も払込1株12円50銭から実に2円台にまで暴落し、宇部セメント製造は株主から厳しい批判を受けたがすぐに事業に着手している。
(web版「翼」担当:D.T.)