宇部興産物語
カプロラクタムへの進出
新しい窒素系肥料である尿素の工業化を検討していた頃の昭和29(1954)年1月、三和銀行(現・三菱東京UFJ銀行)から、「日本レイヨン社(現・ユニチカ(株))がスイスのインベンタ社と提携してナイロンの工業化を検討しているので、その原料であるカプロラクタムを生産して欲しい」との要請が来ました。新しい成長性のある分野への進出を考えていたUBEの首脳陣は、1時間あまりの会議でこれを決断。伊佐にセメントの新工場を建設する予定があり、宇部窒素工場ではアンモニアの拡大と合理化を進めるなかでのさらなる大型投資でした。写真はそれから2年後のこと。専用側線沿いの出荷設備から9.6tのカプロラクタムが、日本レイヨン宇治工場に向け出荷されました。
こぼれ話
カプロラクタム事業とナイロン樹脂の工業化
合成繊維とその原料分野は革新的な技術が相次いで登場した昭和30年から40年代にかけて、多様な展開を見せました。昭和33(1958)年には、既存のナイロン繊維に加え、アクリル繊維、ポリエステル繊維が国産化され、3大合成繊維が出そろい、原料の生産体制も確立しました。これらの合成繊維はナイロンが絹、アクリルが羊毛、ポリエステルが綿の代替、軽くて丈夫で虫が食わず、洗濯が容易と、目覚ましい勢いで需要が伸びました。
ところが、合成繊維の紡糸設備と原料設備との間には、経済規模の点で大きな格差がありました。紡糸は小規模でも経済性がありますが、原料設備は高度な装置工業で、規模効果を出すため大規模指向でした。このため、装置規模の大きな原料部門は設備過剰に陥りました。カプロラクタムの生産を始めたUBEは供給先が日本レイヨン1社であり、設備過剰は致命的といえました。その生産設備は第1期~3期までを一気に建設して、昭和32年9月には合理化による能力増を加え、月産800tの規模となっていました。日本レイヨンの所要量は大幅に下回り、ここで早速矛盾に直面しました。第3期月産300tの設備は運転できない事態となって問題の解決を迫られました。
日本レイヨンとの契約でナイロン繊維を生産できなかった当社は、樹脂を工業化することで、カプロラクタムの付加価値を高め、自家消費を図る方針をとることとなりました。研究を重ね既存特許から独立した自社技術の確立により、宇部のカプロラクタム工場に年産180t能力のナイロン樹脂製造設備を昭和34年6月に完成させ、7月から「UBEナイロン」の商標により販売を開始しました。