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「翼」第8号:宇部興産物語


宇部興産物語

カプロラクタムの初出荷 カプロラクタムの初出荷

カプロラクタムへの進出

新しい窒素系肥料である尿素の工業化を検討していた頃の昭和29(1954)年1月、三和銀行(現・三菱東京UFJ銀行)から、「日本レイヨン社(現・ユニチカ(株))がスイスのインベンタ社と提携してナイロンの工業化を検討しているので、その原料であるカプロラクタムを生産して欲しい」との要請が来ました。新しい成長性のある分野への進出を考えていたUBEの首脳陣は、1時間あまりの会議でこれを決断。伊佐にセメントの新工場を建設する予定があり、宇部窒素工場ではアンモニアの拡大と合理化を進めるなかでのさらなる大型投資でした。写真はそれから2年後のこと。専用側線沿いの出荷設備から9.6tのカプロラクタムが、日本レイヨン宇治工場に向け出荷されました。

こぼれ話

宇部カプロラクタム工場模型を前に談笑する俵田社長(中央)と岡田(左)・中安両副社長(昭和30年6月) 宇部カプロラクタム工場模型を前に談笑する俵田社長(中央)と岡田(左)・中安両副社長(昭和30年6月)

カプロラクタム事業とナイロン樹脂の工業化

合成繊維とその原料分野は革新的な技術が相次いで登場した昭和30年から40年代にかけて、多様な展開を見せました。昭和33(1958)年には、既存のナイロン繊維に加え、アクリル繊維、ポリエステル繊維が国産化され、3大合成繊維が出そろい、原料の生産体制も確立しました。これらの合成繊維はナイロンが絹、アクリルが羊毛、ポリエステルが綿の代替、軽くて丈夫で虫が食わず、洗濯が容易と、目覚ましい勢いで需要が伸びました。
ところが、合成繊維の紡糸設備と原料設備との間には、経済規模の点で大きな格差がありました。紡糸は小規模でも経済性がありますが、原料設備は高度な装置工業で、規模効果を出すため大規模指向でした。このため、装置規模の大きな原料部門は設備過剰に陥りました。カプロラクタムの生産を始めたUBEは供給先が日本レイヨン1社であり、設備過剰は致命的といえました。その生産設備は第1期~3期までを一気に建設して、昭和32年9月には合理化による能力増を加え、月産800tの規模となっていました。日本レイヨンの所要量は大幅に下回り、ここで早速矛盾に直面しました。第3期月産300tの設備は運転できない事態となって問題の解決を迫られました。
日本レイヨンとの契約でナイロン繊維を生産できなかった当社は、樹脂を工業化することで、カプロラクタムの付加価値を高め、自家消費を図る方針をとることとなりました。研究を重ね既存特許から独立した自社技術の確立により、宇部のカプロラクタム工場に年産180t能力のナイロン樹脂製造設備を昭和34年6月に完成させ、7月から「UBEナイロン」の商標により販売を開始しました。

担当者から一言

石炭からアンモニア・カプロラクタムとUBEがカプロラクタムの生産を開始した後の昭和30年代後半は、合成繊維が技術革新、高度経済成長の花形産業となり、高収益を保ちながら量的拡大を続けました。世界の先進国でも同様な傾向でした。関係業界では「バスに乗り遅れるな」が合言葉となり、繊維およびその原料部門ともに活発化し、ナイロン、ポリエステル、アクリルの3大合成繊維ともにそれは共通していました。
(web版「翼」担当:D.T.)

子どもの頃は、図書館に通いながら学んでいたさまざまな情報。今やインターネットから、知りたい情報を簡単に見つけることができます。今回の「宇部興産物語」をまとめるにあたっては、カプロラクタムへの進出が、1時間あまりの会議で決断されたとの事実に驚き、ユニチカ(株)様のHPにある「歴史アーカイブ」を訪問。同社の100年史には、ユニチカ(株)様から見た、当社やまわりの動きが書かれている。見方が違っていたり、知らぬこともあるので面白い。当社の来年は、創業120年。この120年という時は、歴史の一幕であり、未来への通過点にすぎないのだろうけれど、会社の歩みを「年史」として整理し皆様にお伝えすることの意義を、改めて感じました。
(誌面「翼」担当:M.K.)